神学大全 第一問 第一項 哲学的諸学問のほかになお別個の教えの行われる必要があるか
まず序文を読むと、この本の目的が「聖教 sacra doctrina」についての諸々の問題を明らかにすることだとわかる。書名は神学大全 Summa Theologiaeなのだから、ここでいう「聖教」とは「神学」のことなのか? 等値していいのか? でも、わざわざ別の言葉を使っているとしたら、別の意味なのかもしれない。気になるが先へと進む。 では聖教についての学とはどういったものなのか。考えなければいけないことはたくさんある。
通常の学問であっても、たとえば生物学だったら「何を」研究するのか、「どうやって」研究するのか(方法論)、他の学問との「関連性」は?など、その学問をどのように特徴づけるかという問題が出てくる。聖教についても同じような特徴づけが求められるだろうし、聖教であるからこその事情もそこにはあるだろう。
トマスが各項に入る前、冒頭で挙げている聖教という学に対する「問題」は以下の十点だ。
第一 この教えの必要について
第二 それは学であるか
第三それは単一な学か、それとも幾つかの学か
第四それは観照の学であるか、それとも実践の学であるか
第五 その他の諸学との比較について
第六 それは智慧であるか
第七 それの主題は何か
第八 それは論議を行う性質のものか
第九 比喩的乃至は象徴的な語りかたの可否について
第十 この教えの基づく聖書は、幾つかの意味に従って解釈さるべきであるか
第1項では聖教の必要性について論じる。聖教は必要なのか? 今ならフツーに神学ってあるから「必要かとか言われてももうあるし」とも「そもそも学問って何かしらの人間の知識が増えればいいので、わざわざ必要性とか論じる必要性がないんじゃないの? 必要とか有用とかとは別に学問ってあるわけだし」などとも思うのだが、ここで聖教にとって特殊なのは、それが神様とかキリスト教とか、その周りについての知を扱うためだ。
というのも、「聖教が学だとすると聖教っていう学さえあれば信仰要らないってこと? それで神様について知れるってこと?」信仰があるんだからそれとは別にわざわざ学は必要なの?という疑問が浮かんでしまうからだ。
これとは逆に「知れることについては既に哲学があるんだからそれでよくない?」という疑問も出てくる。「わざわざ聖教なんて言わなくても理性で知れることは哲学。ね。理性を超えたものについては信仰。うん! きっちりとわけられた!」と、そっちのほうが座りがいいかもしれない。
要するに「既に哲学も信仰もあるのになぜわざわざ聖教?」。神学大全という探求を始めるにあたって、最初に明らかにしなければいけないのがまさにこの「で、聖教って何?そんなん要るん?」なのだ。
トマス自身は『神学大全』なんて本をわざわざ書いてるわけだから「聖教は必要」という見解のはず。となるとその異論とは「聖教なんて必要ねえ」だ。ここでは2つの異論が挙げられている。
(これは神学大全がそういうスタイルなのだけど、最初に異論が紹介され、次に反対異論(異論への異論)が紹介され、その後でトマス自身の主文が、そして主文を踏まえ異論に対する回答=異論回答が提示されるという形式になっている) ①聖教なんて必要ない。だって既に信仰も哲学もあるんだから。理性を超えたことについては信仰。理性で探究できることは哲学。もうそれでいいじゃん。
②聖教なんて必要ない。アリストテレスも哲学の1ジャンルが神学(テオロギア)だって言ってる。実際、信仰の対象は「有 ens」。学問の対象は「真 verum」と言われるけど、真と有は同じこと。哲学はあらゆる有を対象にしてる。もちろん神だって有だから、哲学の1ジャンルである神学の対象になるんだよ。 ではこれにどう答えるのか。トマスの結論は以下の通りだ。
A. 聖教という教えは必要
B. 聖教は自然的理性にではなく神的な啓示に基づく
C. したがって聖教は自然的理性による探究である哲学の1ジャンルではない
ここでまず「神学」という言葉とは別に「聖教」って言葉を使っている理由がわかる。そのまま「神学」と言うと、哲学の1ジャンルとしての「自然的理性に基づく」探究である神学とごっちゃになってしまう。トマスが探究したい「神学」はそれとは異なるものなのだ。
それゆえ、聖教に属するところの「神学」は、哲学の一部門とされるところのかの「神学」とは、類を異にするものなのである。 トマス・アクィナス 神学大全1 p.7 「聖教」の1ジャンルの「神学」と、「哲学」の1ジャンルの「神学」。2つの「神学」があるということだ(「聖教に属する神学」という言い方からは「神学のほかにも聖教に属するものがある」可能性があるとも考えられるが、とりあえずこの話もここだけではよくわからないので先に進む)。
言い換えるとトマスが言わなければいけないこと、言いたいことは「哲学の1ジャンルなんかじゃない神学がある」ということだ。即座に疑問に思うのは
ⅰ. そんなもんがなぜ必要なのか
ⅱ. 理性ではなく啓示に基づく学とは何なのか
ということだ。iから考えてみよう。トマスの考えはこうだ。
a. 神は人間の目的であり、人間は神に向かって秩序づけられている。
b. 人間は自己の意図や行為を目的に向かって自ら秩序づけなくてはならない。
c. 「自ら秩序づける」ためにはあらかじめ目的が知られてなければならない。
d. 神という目的は理性の把握を超えている。
e. したがって、人間が救済されるためには理性を超えたものが神の啓示によって示されなければならない。
f. この「神の啓示」によって示されたものの学が聖教である。
結論はf。a〜eが前提。前提がすべて真であり、前提から結論が導ける妥当な論証になっていればfだと言えることになる。が、自分はこのうちのいくつかの前提にひっかかりを覚える。
まずはaとbだろう。人間は神に向かって秩序づけられている。「そんならええやん」である。人として生まれたからには神という、絶対的な存在によって秩序づけられているのだから、それ以上何をするべきことがあるの? 生まれただけでそうなっててめっちゃハッピーだねーで終了ではないのか。
これはbの「人間は自ら秩序づけなくてはならない」と矛盾してないか? すべてを神が秩序づけてくれてるほうが間違いがないし、もしそうなら、自ら秩序づけなければならないという必然性は特にないではないか。
ただ、これについてはこう考えると辻褄が合う。人間は神という目的に向けて秩序づけられているのだが、それは人間が自ら自己の意図や行為を秩序づけなければならないようなあり方でそうなっていると。そのためには神という目的が人間に知られていなければならないのだが、これは人間の理性を超えている。そこで神の啓示が必要だと。なんでそんなまだるっこしい目的付けをされているのかわからないが、それこそ神の意図など人間の理性を超えているのだろう。
eもよくわからない。「人間が救済される」のは当然の前提ではないから。自分の住む現代社会のあまりの酷さを見れば、救済なんてされないという考えだって自然だろう。とはいえ、キリスト教においては「救済される」は疑わざるべきコア命題だろうから、これはその通りとして受け入れるしかなさそうだ。
とまあ、いろいろと思うのだがそれはいいとして、ここまで読んでも全然わかんないのは、「その聖教というのは信仰と何が違うのか」だ。トマス自身は「信仰において聖教は成り立つ」といったことを言っている。これについてはここだけではよくわからないので先送りしておこう。